14歳の時の詩
キラキラの制服は
私の心を煽った
視線を外してーーーコンクリは無言だ。
光の無い夢を見て
あたたかいスープも
テーブルには無い。
私は逃走した
彼等との日々から
微睡んだ通学路や
若く暴力的な視線から
私は酒を呷った———
名字しか知らない男のコと寝た
都会とは友達になれないのよ……と。
私の…孤独
彼らの…悦楽
朝食の準備は無い。
名も無い痣が私の誇り
あの夜のことは
パパには言えない
秘密が増えた。
祭りのあとの片付け
のような気持ち
ア
「どこへいこうと人間は間違ったことをする巡り合わせになる」
窓をあけたら煙草のにおいがぷんと鼻をついた。
私にとって煙草は「正しい」匂い。
売女どもにとって煙草の匂いは男を連想させるそうだけど生憎私はそうじゃない。
ただ懐かしくて胸が苦しくなる思い出にはいつもあの焦げた匂いがこびりついている。
純文学を読んでいたあの頃
そして私はこれまでにないほど焦ってる「人生の長さ」について
急に死ぬ事を恐れだした(ぼんやりしていた輪郭がはっきりと)
はっきりいって私はセックスしている暇なんてない!
とにかく本を読まなくちゃ、学ばなくちゃ、別の"何者か"にならなくてはならない
なんにもしなくても自分は価値ある存在だっていう勘違いをやめたの。
あ
水越里佳子が好き。雰囲気も顔もぜんぶ好き、はやくあの顔に整形したい。でも整形しちゃったら影でなにかいわれるだろうな。別にいい。
美術部は高一の展示会のあとにはもう行かなくなった。なぜか賞をもらえると思いこんでいたのにもらえなかったからだ。あのときの私はとても自信があって自分を過信していた、自分が何者かになれると疑わなかった。また絵が描きたいと思いはじめている。
絵だけじゃない。はやく文章も描きたいし物も作りたいと思ってる。プログラミングもしたいし勉強もしたい。だって何も生み出さない人間は人間じゃないし。ただの植物と同じ。植物人間。私は血と肉をもった人間でありたいと思ってるし、バカらしいかもしれないけど人生を少しでも起伏あるものにしたいと願ってる。悲しんだり喜んだりしたい。今はなにもない。なにも。
東京に行くのはついに故郷に居場所がなくなったから。東京ならあるんじゃないかって、私の居場所(本当はどこにもないのは知ってる)でも少しでも受け入れてくれる場所が、人が、空気が、この世のどこかにあるんじゃないかって、その希望が失ったら私はどうやって生きればいいのか。…
小説をかいて文フリ(行った事無い。行きたい。)にだすか、あるいは何かの賞に送る。私はひとりぼっちだけど仕方が無い。夜美をやめたい。次の名前はもう考えてある。
東欧映画「ひなぎく」
餡蜜を食べていると開演5分前になった。
私は急いでオレンジの切れ端を口に放り込んで喫茶店をでた。
ミニシアターは、普通に生きていたらおよそ降り立つこともないような辺鄙な場所にある。
シャッターだらけの工場街を見渡し、私は、
これはよっぽど面白くないと許せないな、と
おもった。
60年代の女の子映画。
(私は女の子映画という名称が嫌い。だって馬鹿っぽいし。でも好きな映画はどれも女の子映画だ。それはたぶん私が映画にロールモデルを探し求めているから。)
ミニシアターは狭く薄暗い。なのにどこから沸いてでたのかシアター一杯に若い人たちが座っている。一人、ロリータでかためた女の子もいた。
私は正規の席に座れず、硬いパイプイスに座らされた。
主人公はイェツィンカとヤルミラという姉妹。
突然彼女たちは哲学的な、そして無意味な言葉遊びを始め、
まるで生活感のない部屋で遊ぶ。
彼女たちの遊び……
それは、シュガーダディを騙し、男を弄び、あるいはメチャクチャな化粧をすること。
他人のワインを奪いとって馬鹿騒ぎすること。フィルター付きの煙草を燻らせること。
彼女たちに罪悪感とか、反省なんて感情はまるでない。そして、誰かを必要ともしていない。
姉妹は姉妹だけの世界で完結している。
二人は、階段を上り下りすることさえも楽しむ。
彼女たちに、労働や金銭の悩みなどない。
ただ、漠然とした将来への不安を少しだけ覗かせる。
本当はこんな生活はやめなければならないこともわかっている。「いい子になって、幸せになるわ」
それから彼女たちは、用事もないのにやけに忙しそうに過ごす。「今日ここは退屈だから、どこかに行くの」
忙しいのではなく、忙しくありたいだけ。
女の子は暇を何より恐れる。時には死より。
やがて彼女たちは、共産党幹部のパーティに忍び込んで食事をメチャクチャにする。
そして厳しくお仕置きをされ、掃除をするよう言いつけられる。
掃除を終えた彼女たちがテーブルに寝転んで笑うと、豪奢なシャンデリアが落ちてきて、映画は突然幕を閉じる。
映画の始まりと終わりには、第二次世界大戦時の爆撃の映像が流れ、
彼女たちのシュールで愛らしい生活とのコントラストが際立つ。
この映画が作られた60年代のチェコスロバキアは社会主義体制で、芸術は抑圧されていた。
抑圧への抵抗として、彼女たちは甘い甘いケーキをぶつけ合ってグチャグチャにする。笑う。嘘泣きはするけれど、本気で泣いたりしない。
こんな人生が馬鹿馬鹿しいことも、きちんとわかった上で、あえて演じている。
演じるというのは少女の人生に不可欠だ。
心から人生を生きるなんて、できるわけがないのだ。
そんなことをしたら、美しくあることなんてできない。
無邪気に声をあげて笑うことができない。
それから、もうひとつ、
この映画は食事シーンが多い。
外国の女の子は、咀嚼音が少しちがう。
モグモグではなく、ペチャペチャという音がする。
文字だと汚らしいけれど、若い女の子がペチャペチャと音をさせてカップケーキを頬張るのは何より可愛らしい。これは説明しづらいので見て確認してほしい。
(しかし、この映画の料理はあんまり美味しそうじゃない。)
放映中、隣の男の人が眠っていた。
男の人には楽しくないんだろうな。
でも、放映後、外ではDVDを求める女の子が列をなしていた。
繰り返し繰り返し見たいと初めて思った。
ストーリーがないので飽きることがないから。
ファッションもよかった。
古着のようなシンプルなAラインワンピースと、低い黒のヒールという地味なスタイルだけれど、それが妙に自由で軽快な彼女たちに似合っていた。
着飾るよりも遊ぶことを優先した女の子には、そのほうがよい。
背筋をのばしてきちんと生きるのもいいけれど、
バッグを振り回しケーキを鷲掴みにしてスキップしながら生きるのもいい気がする。
たとえ最期にシャンデリアに押しつぶされて死んでもいいと思うならね。
生理が来ないの
と、ホテル行ったきり音信不通の彼にメールしたらどうなるだろう?
(実際はハイペースに来てる)
たぶん小心者でこじんまりした、つまらない彼は
「僕じゃない」とか「気のせい」とか、必死に言い訳するのだろう
もしかしたら堕ろしてというかもしれない
だから、言うのは怖い
彼がつまらない人間だなんてとっくにわかっているけれど
まだ確信したくないから
彼の顔をはっきり見れない
毛穴が開いていたらどうしよう?
目やにがついていたらどうしよう?
本当はそんなにかっこよくなかったらどうしよう?
私は失望したくないのだ
恋心がカラカラに乾涸びるのが怖いのだ
だって恋を失ったら何を糧に生きれば良いの
なんのために毎朝馬鹿みたいに早起きして
せっせとおしろいを塗りこんで働くの
私はなんの為に生きてるの
なんの為の人生なの?